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スクラップ・ジャーナル4
 

「スクラップ・ジャーナル」は雑誌や新聞などの記事の内容(要旨)をまとめたものである。興味をひかれた読者のために、記事の原典にあたれるよう、書誌的事項(雑誌名・巻号数など)を記載した。それをもとに図書館などで探して、目を通していただければと思う。


 凡 例

 本誌の記載内容の構成は下記の通りである。
(記事番号) 記事のタイトル;サブタイトル(執筆者名) 記事の要旨 キーワード 出典・初出


数学って本当に役に立たないのか?

 数学なんてやったってしょうがないじゃん、どうせ生活や仕事に直接関係あるわけじゃないのだし。計算だって電卓があるから平気だしさ。と、お思いの方も多いのではないでしょうか。いやいや、実は、数学は意外にも私達の生活や仕事に役立っていたのでした。

(FILE−031)
数学学習が階層の固定化を防ぐ(西村和雄:京都大学経済研究所教授)

 クリントン前大統領が3年前、数学・理科の教育を強化すべきであると訴えたという。ペンシルバニア大学の研究成果によると、労働者の教育水準を約1年分引き上げると、生産性が8.6%上昇することがわかった。それに対し、これに相当する設備投資をしても、3.4%しか増加しない。マイケル・フィリップ教授によると、「未熟練労働者でさえ、高い技能が要求される。掃除夫は生物災害の恐れのある素材の廃物管理を理解しなければならない。化学療法の後処理をどうするか知っていなければならない」と述べている。日本の核燃料施設での臨界事故(1999年)を思いおこせば、フィリップ教授の言葉はうなずけるのではないか。

 筆者は他の仲間とともに調査を行い、興味深いデータを導きだした。それは3つの私立大学経済学部の卒業生を対象に、大学受験の際に数学を選択したグループと、選択しなかったグループに分けて、卒業後の所得を調べたのである。その結果、数学受験者の所得が明らかに高いことがわかったのである。特に共通一次試験後の卒業生では、平均所得の差が107万円と開いたという。日本では、一般に親の学歴が高いほど、子どもの所得が高いという調査結果があるが、数学受験者の場合、親の学歴とは関係なしに平均所得が高かったのである。つまり数学の学習によって、「親の所得にかかわらず高い所得を得る手段になり、階層の固定化(金持ちはいつまでたっても金持ちで、貧乏な人はいつまでたっても貧乏から抜け出せないということ)を防ぐ役割を果たしている」といえるのである。

 しかし日本では、数学は生活に直接関係ないから学ぶ必要がないといった意見が根強い(日本以外の国では、こういった意見が支配的意見となることはない)。クリントンが数学・理科の教育の強化を述べていた時期とほぼ同じ頃、日本では教育課程審議会の当時の会長が、インタビューで、「私は二次方程式もろくにできないけど、65歳になる今日まで、全然不自由なかった」(「週刊教育PRO」1997年4月1日号)という数学嫌いの彼の奥さん(作家でS女史といえば誰だかわかると思う)のような人を教育審議会の数学分科会に入れるべきだと述べたという。この結果かどうかはわかないが、二次方程式の解の公式が中学からなくなり、高校へ移された。

 筆者が言うように、S女史のように「みんなが作家になるわけではないのだから、その個人的な体験を過度に一般化しても意味がない」「結果的に数学や理科を使わない職業についている人がいることと、これから社会に出る高校生や大学生が理数科を学ばないでよいのかは、全く次元を異にする」(これは理数系を学んでおくことで、将来の職業選択の幅が広がるメリットがある)ことであり、むしろ目に見えないかもしれないが、数学は日常生活の中で役に立つと訴える。数学(に限ったことではないのだろうが)を勉強することで、論理性が養われ、「たとえ勉強した科目そのものを忘れても、いったん開発された脳の論理的思考力という形で残るであろう」からだ。そしてそういった論理的思考力は「その科目とは直接関係のない学問や日常の仕事に役立つのである」。

・キーワード:教育改革 数学 階層固定化
「論座」2001年9月号 14-15頁

 OH!NO! しまった! 私は数学で受験しなかった組でした。うーん、だからこそ、論理的志向ができずにいるのかもしれない。感情や感覚に揺さぶられて、論理的に判断できずに損をしたことは、過去たくさんあったような・・・。それに所得の低さもそのためだったのか(泣)。そういえば、イギリスの作家・エドガー・アラン・ポーが「正しい推理をなすためには、人は詩人にしてかつ数学者でなければならない」と言っていましたっけ。もちろんこの後には「単なる数学者にはそれは不可能である」という言葉が続くのですが、数学が基本的なものとして重要であるという認識はあったのですね。

2001.08.29)


日本の科学技術に未来はあるのか;理科離れの話

 前回は数学の記事であったが、今回は理科の記事である。かつて技術大国・日本といわれ、またこれからも科学技術創造立国を目指そうとする日本であるが、本当に目指そうとする気があるのだろうかと、筆者は日本の一億総「理科離れ」に警鐘をならす。

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一億総「理科離れ」の深刻(中野不二男:ノンフィクション作家)

 来春から小中学校の理数科系教科の時間が、大幅に削減されるという。文部科学省は授業の削減によって、子どもたちの学力低下はないという。確かにIEA(国際教育到達度評価委員会)の調査によると、これまで日本の生徒の理数科系教科の成績は上位を占めている。しかし理数科に対する関心度(好き)については、20数か国中の最下位である。

 多くの子どもたちと接する機会を持つ筆者の印象から子どもたちを見ると、小学校4・5年生までは理科に関して強い興味を示す。しかし多くの子どもたちは、小学校6年生頃から「理科離れ」が始まるという。もちろんこれは、この時期の子どもたちが「音楽や歴史、絵画やスポーツなど、たくさんの分野のなかから、興味のある方向へ向かっていく」時期でもあるからなのだが、前述の関心度の調査を見ると、他国に比べ「理科離れ」は深刻である。

 なぜ子どもたちは「理科離れ」を起こしてしまうのであろうか? この件について筆者は、子どもたちを取り巻く環境(家庭・図書館・学校・マスメディア)を分析していく。

 まず家庭。思春期以前(小学校4・5年生くらいまで)の子どもたちと長い時間を接しているのは、これまでのところ母親であろう。しかし科学技術についての関心度を調べると、男性より女性のほうが関心度はかなり低い。これは理工系の大学に進む女性の割合が、極端に少ないことからみても明らかである。それでは父親はどうかというと、こちらもはなはだ心もとないようだ。最近は日曜大工をする父親が減っているだけではなく、道具の使い方すら知らない父親もいるという。子どもたちは、そういった両親を見て(家庭の「空気」を感じて)育つので、どうしても理科離れへの影響を受けざるを得ないのではないか。

 次に図書館。ここがまた理科に弱い。人文科学系や社会科学系については、古典から現代まで蔵書が充実しているのに対し、自然科学系は貧弱である。これは図書館職員も同様である。多くの図書館職員が人文科学系の出身者であるため、自然科学系の書籍の選定にまごついてしまう。また自然科学系の新分野の書籍分類がきちんとなされていない図書館もある。

 これは学校(小学校)にもいえることである。小学校の教師も大半が自然科学系学部の出身者ではない。そのため理科の授業は文部科学省のカリキュラムに従って進めていくだけで、「広がりもなければ幅もない」という。カリキュラムのパターンからはずれた、子どもたちの自由で素朴な発想や工夫を評価できないでいる。

 そしてマスメディアも同様である。「政治や経済の話になると、重箱の底をほじくるどころか、孔をあけてしまうほどに調べまくる。しかし科学技術がらみの事件や事故では、手のひらを返したように内容の浅い報道になってしまう」。

 というわけで、この理科離れは、青少年の問題だけではなく、大人を含めた日本人全体の問題でもあるのだ。実際、OECDが1997年に発表した報告書「一般市民の科学技術に対する理解」によると、日本は先進14カ国の中で「科学技術に対して関心を持っている一般市民の割合」は最下位であり、「科学技術について知識をもっている一般市民の割合」も14カ国中13位である。

 こういった環境に囲まれ育つ子どもたち。どうしても理科離れは必至のようだ。小中学校の理数科授業の削減をすべきではないことは当然であるが、それだけで解決できる問題ではないようだ。

キーワード:教育改革 理科
「中央公論」2001年9月号 212-219p

 理科離れは大人たちの問題でもあり、それぞれの現場で、これを克服しなくては子どもの理科離れを食い止めることはできないのかもしれませんね。実は私も理科系は弱い。特に物理とか化学となると、お手上げです。ってことは、我が家の子どもたちも・・・。親としては子供の興味関心のあることを伸ばしてあげたいと思うものですが、そういう思いとは反面、理科離れの環境の中では、はじめから理科系という選択肢が失われているのかもしれない。こいつはちょっとマズいかも、と思っている私でした。

2001.09.05)


団塊の世代とは?(2)受難の世代

 団塊の世代については、以前、スクラップ・ジャーナルのFILE−010でも扱った。その時は、どちらかといえば、団塊の世代の思想的側面についての紹介であった。今回はデータをもとに、彼らの生活面を分析したものである。私たちがその世代に対して抱いていたイメージとは、ずいぶん異なり、かなり厳しい人生を生きなければならない世代であることがわかる。

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常に「競争」にさらされた受難の過去現在そして…(山上俊彦:住友生命総合研究所調査部上席研究員)

 団塊の世代は1947年から1949年に生まれた世代であり、その出生数は毎年260万人を超えている(2000年の出生数は118万人である)。突出した多さを持つこの世代は、進学・昇進・結婚と宿命的に「競争」を強いられることになり、その「競争」こそ、この世代の特徴を示すものである。

 よく「団塊の世代」は「中高年に達して賃金水準が高くなり、企業にとっての人件費負担増の要因となっている」と言われる。しかしこの見方は、事実を正確に表わしていないと筆者は述べる。

 団塊の世代が就職したのは、高卒・大卒ともに第1次石油ショック以前の高度成長期であり、好景気に恵まれたことで、比較的良好な就職状況・就職条件であったといわれる。しかし、このことは高卒者には当てはまるのであるが、管理職候補である大卒者では事情が異なったようである。企業は彼らの入社時から、年齢階層別の人員数とポスト数をチェックし、長期的な人事戦略を練っていた。それによって、団塊の世代は賃金を低く抑えられ(実質2〜3%は抑制されているという)、入社時から査定を厳しくしていたのである。つまり競争は厳しく、賃金は抑制された世代なのだ。いずれ団塊の世代が人件費負担増になることは、企業は承知しており、30年前から、それなりの対応策を図っていたのだ。そして最近の年俸制やリストラを考えると、その競争はさらに厳しさが増すことになる。

 競争は結婚でも同様である。結婚をする場合、男性が少し年上で、女性が少し年下で結婚することが多い。そうなると男性の場合、自分より年下の女子人口が少ないため、結婚難が生じる。結婚相手を探すのもひと苦労なのだ。その結果、2000年時点で団塊の世代に相当する50〜54歳の未婚率を調べると、男子10.0%、女子5.2%となり、過去(その前の世代)の50〜54歳の未婚率を上回っている(1990年の未婚率の調査では男子4.3%、女子4.1%。1995年の調査では男子6.7%、女子4.5%であるとのこと)。ちなみに団塊世代の女子の未婚率が、その前の世代とそれほど変わらないのは、妻と離別または死別した年上の男性と結婚する場合があるからと考えられる。

 就職・昇進・結婚と厳しい競争を強いられる団塊の世代であるが、現在のところ老後の生活は安心できそうだ。公的年金給付が、自己負担分と雇用主負担分の合計を上回るからである。老後になって、ようやく厳しい競争から抜けられるといえる。しかし、この年金給付額であるが、「今後も労働生産性が向上して現役世代の賃金が上昇すること、現在35歳以下の人たちが世代間の不平等に不満を持ち、そのため年金給付額が削減されるといったことが起きないこと」という条件をクリアした場合である。

キーワード:団塊の世代 就職 結婚
「エコノミスト」2001年8月28日号 72-73頁

 この記事は経済誌に掲載されたこともあってか、進学についてはあまり触れてはいないが、高学歴社会の始まりの世代でもあり、現在と違って大学に入るのもかなり苦労したようだ。こうして見ていくと、団塊の世代は、人口が多いために、生まれてからずっと「競争」の中で生きていかざるを得なかった世代である。大所帯ゆえにパワーのある世代だが、これはこれで大変な人生(ライフコース)であるといえるのかもしれない。

2001.09.12)


「女ことば」はどこへ行く

 若い女性の言葉遣いが悪くなったとか、男のような言葉遣いをするようになったとか言われるが、彼女達はどうして男のような言葉遣いをするのであろうか。この記事では「ちげーよ」という言葉の使われ方を調査・分析し、若い女性たちの言語環境や心理状況を明らかにしていく。

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女性のことば今昔;「ちげーよ」と「よくってよ」(小林千草:成城大学短期大学部教授・日本語学)

 最近はあまり聞かれなくなった女言葉であるが、その歴史をさかのぼっていくと、室町時代の女房言葉から端を発し、江戸のお屋敷言葉、お女中言葉に至り、明治期以降の東京山の手言葉(山の手の上流夫人・お嬢様言葉)に行きつく。「これらは、すべて、優美化、上品化に目標があった」が、現代の若い女性の言葉言葉遣いは、逆に乱暴化・下品化に向かっている。もっとも女らしい言葉を使う人と言えば、今ではニューハーフの人たちであるというのが現状のようだ。

 文化庁は平成12年度「国語に関する世論調査」の結果を発表した。筆者はその中で、「日常会話で『違うよ』を『ちげーよ』と言いますか」という設問に注目する。世論調査では、「ちげーよ」を使う人は5.4%、使わない人は94.3%と回答している。この結果はあくまで平均値なので、更に詳しく分析すると、「ちげーよ」を使う人は、どちらかというと関東地方の少年たち(16から19歳)が多く、仲間うちで使っている言葉であることがわかった。つまり「ちげーよ」は男言葉である。

 そこで筆者は、短大生(女子)に同様のアンケートを行なった。それによると、「ちげーよ」を使う人は45.7%、使わない人は53.3%という回答を得た。但し、使わないと答えた女学生の中には、ケンカ(友達や兄弟などとのケンカ)をする時にはつい使ってしまうという者もいて、実際の使う人の割合はもう少し増える。

 「ちげーよ」という言葉については、男言葉であることを認識しているようだ。「言葉づかいが悪い」「キタナすぎ」と感じ、使わないようにしている学生もいる。また自分に言われると「こわい」「なんか少し悲しい」「下品」と不快を訴える学生もいるという。それにもかかわらず、なぜ彼女達はこの男言葉を使うのであろうか。

 前述の「ケンカ」の場合もあるが、「親しさのあらわれ」として使われることが多いとのこと。特に相手が男の子の場合には有効である。わざと乱暴で下品な言葉を使うことで、自分を相手(男の子)に同化させ、友達同士としての「コミュニケーションの場をなごめ高める」ことができる。これは自分と相手との関係が対等の関係であることを示すことができ、「同世代の男の子と対等に生きるための工夫」である。

 ちなみに相手が同性の女の子の場合は、多少注意が必要みたいである。相手のタイプが「男の子のようにサッパリした」タイプなら問題はないのだが、そうでないと、やはり不快に思われることがあるからだ。

 このような「ちげーよ」だが、「きもい」や「ちがくて」などの言葉と違い、TPO感覚が働きやすく、女学生たちが卒業し社会人になると使われなくなるだろうと、筆者は述べる。それはこの言葉が男言葉であり、自分に言われると不快感を感じ、そして「がう」の(au)という美しいメロディーを持つ二音が「ゲー」(e:)という擬声擬態語音としてもマイナスイメージを持つ音になってしまうからである。

・キーワード:言語 女性 ジェンダー
「国文学 解釈と教材の研究」46巻12号(2001年10月号) 学燈社 34-41頁

 ふーむ、なるほど。若い女性達の言葉使いの乱れは、男女平等という中で、同世代の男の子と対等に生きるための工夫でもあったのですね。確かに女らしい言葉だと、優美さ・上品さはあるけど、男性と対等に渡り合うことは難しいかもしれない(とはいえ筆者同様、優美さ・上品さの喪失はちょっと寂しいような気もする)。その反面、この「ちげーよ」に関してだけいえば、案外、女性たちには定着せず、いずれ使われなくなるのではないか、と私は思う。というのも最近の若い人たちの言葉遣いの傾向は、断定した言い方を避けたり、相手と摩擦やトラブルを回避しようという、人間関係を円滑にする方向に進んでいるからだ(特に仲間内では顕著)。本人達が不快感を示す「ちげーよ」を日常生活の中で連発すれば、いずれ摩擦やトラブルは避けられず、彼女達〈使っている本人達)にとって好ましくない状況に陥ってしまう。せいぜいケンカという特殊な状況においてのみ使用が残されるのではないだろうか(この点でも、まさにTPOが働きやすい言葉といえる)。

2001.09.19)


機会の平等の後に来る社会;本当に幸せな社会は来るのか?

 貧富の差をなくそうとする「結果の平等」をないがしろにして、世はまさに弱者切り捨ての時代に突入しようとしている(小泉改革の根本もここにありそうであるが)。能力主義の名のもとに、実力があれば豊かになり、そうでない者は切り捨てられて当然と思っているみたいだが、そんな社会は本当に私たちを豊かにし、幸福にするものなのであろうか。また能力主義・機会の平等の社会では、実力さえあれば本当に豊かになれるのであろうか。

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そして「弱者」はいなくなった(佐藤敏樹:東京大学大学院総合文化研究所助教授・比較社会学)

 バブル崩壊以降、日本社会は結果の平等ではなく、機会の平等に変わりつつある。日本的経営の見直し、マルクス主義の崩壊、格差を積極的に肯定する感覚など、それを裏付けるものは枚挙にいとまがない。

 機会の平等によって何がおこるか。それは「弱者」を消し去ることである。「弱者」が消えるといっても、すべての国民が豊かになるわけでもなければ、弱者がいなくなるわけでもない。それでも「弱者」がいなくなるように見えるのは、2つの仕掛けがあるからだ。

 ひとつは結果の平等と機会の平等では、「弱者」の持つ意味が違っていることである。結果の平等では、持てる者(強者)と持たざる者(弱者)の差自体が悪であるので、「弱者」は不当な目にあっている被害者となる。それに対して機会の平等では、「弱者」はゲームに参加することすらできない可哀想な人であり、自ら「弱者」を認めることは二級市民という烙印を押されてしまう。「ついこの間まで、一億総中流意識の中で「人並み」であろうと必死に努力してきた」日本人にとって、現実の生活はどんどん悪い方向に向かっていても、自らを「弱者」と呼びたがらない。これによって「弱者」は消えて行くのである。

 もうひとつは、機会の平等自体が持つ問題である。機会の平等といっても、実際は何か一つの基準(モノサシ)があるわけではない。複数の機会の平等のモノサシがあるのに、これをごまかしたまま、相手のモノサシを否定し、自分のモノサシだけが正しいとするのである。どちらのモノサシが正しいかを判定することはできず、結果、強者によるモノサシだけがまかり通ることになる。そのため、一方のモノサシで測られた機会の平等で、不利益をこうむった人がいても(まさにこれは「弱者」であるのだが)、彼らは「あくまでフェアな競争によって負けたとことにされる」のである。それによって彼らは、「弱者」ではなく「敗者」となるのである。

 「弱者」を認める社会、つまり結果の平等の社会では、「弱者」は被害者であり、彼らを生み出した社会(結果の平等原則をきちんと実現できない社会)の責任となる。「弱者」は「自分が悪いのは社会のせいだ」と言えることで、自分自身(自分の弱さ)を肯定できる。弱者ではない者はどうかといえば、「豊かさや力があったりするので、その豊かさや力によって自分を肯定できる」のである。つまり皆が自分を否定される感覚を強く持たずにすみ、それなりに自分を肯定できるのである。

 しかし「敗者」となるとそうはいかない。たとえ本人にとって、不公平な機会の平等であっても、敗れたのは自分のせいだとして、自己否定感に思い悩まなければならない。人間は自分が不当に否定され、その否定を受け入れなければならないとされた時、思わぬ感情が爆発する。「自分も不当に否定されたのだから、他人を不当に否定してもかまわない」と。そして鬱屈した感情を別の誰か(誰でもよい)にぶつけ、自己否定感を埋め合わせようとするのである。社会の内部にぶつける標的をみつければ、陰湿ないじめや公然のリンチが起きるだろうし、社会の外ならば扇情的なナショナリズム(自己破滅的で危険なナショナリズム)につながる。

 機会の平等はこういった深刻な「危うさ」をかかえている(必死に安全装置を用意しているアメリカとて例外ではない)。そしてその兆しはすでに日本のあちらこちらで発見できる。「成果主義」の名の下に恣意的な査定が横行し、感情的な人身攻撃や匿名の袋叩きがまかり通る。そして極端から極端へ走る社会。果たして日本社会は、これらをうまく回避できるのであろうか。

・キーワード:公正 機会の平等 結果の平等
・「中央公論」2001年10月号 92-98頁

 結果の平等を廃し、競争社会・能力主義・機会の平等を標榜する国といえば、アメリカである。その対極にあったのが日本であった。ヨーロッパはその中間に位置し、結果の平等と能力主義のバランスを取り続けていた国々であると言える(日本ほど結果の平等に力点はないが、社会福祉は日本以上に手厚い)。つまりアメリカは先進国の中では、特殊な国なのである。ところが、私たちはアメリカが国際社会の標準であると錯覚し、日本だけが国際社会とは異質の国と信じているような気がする(公正観については、日本とアメリカを比べると、日本のほうがヨーロッパに類似している面もあるのに)。また「アメリカン・ドリーム」の良い面しか見ないで、結果の平等を否定しようとしているのではないのか。競争社会・能力主義などのアメリカが、どれだけ病んでいるかを(もちろん病んでいることは、これだけが原因ではないのだが)もう少し目をこらして観察すべきで、単に結果の平等を廃したところで生活が良くなるどころか、新たな問題を生み出してしまうのではないか。

2001.09.26)


「自転車通勤で行こう」

 この記事は自転車通勤をする会社員をリポートしたものである。かくいう私も、ずっと自転車通勤をしている(10年以上前に購入したオンボロマウンテンバイクだけど)。だからこの記事に書かれていることについては、「そう、そう」と共感できるところが多い。自転車が好きなこともあるが、もうひとつは電車やバスなどの交通の不便なところに住んでいるためなのだが。

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自転車通勤で少年になる(阿古真理:ライター)

 最近、自転車通勤をする会社員が増えているようだ。マウンテンバイクやロードーレーサーに乗り、さっそうとオフィス街を走り抜けていく。自転車専用のウェアに身を包んだ本格派もいる。家から職場まで、電車通勤だと1時間以上かかる距離の人もいるという。それなのに自転車通勤をする。彼らをひきつける理由は何か。

 ひとつは健康のため。自転車通勤で18キロダイエットした人。健康診断でCの判定を受けていたのにすべてAになった人など、自転車は健康に良い。それに何よりもストレス解消につながるようだ。ある会社員は、自転車通勤をしていると「邪念がなくなる。イヤなことはどうでもよくなる」と述べている。

 環境にも良い。車での通勤と違って、地球温暖化の原因となる排気ガスを出さないからだ。しかし単に環境に良いだけではない。「自転車通勤で行こう」(WAVE出版)という本で、自転車通勤の魅力を書いた疋田智氏によると、自転車に乗るとエコロジーについて自ら意識するようになるという。季節にも敏感になれる(空や海の色など、普段なにげなく見過ごしている季節を発見できる)。しかしそれ以上に、自転車の魅力は「風を切って走ることの気持ち良さ」にあるようだ。この爽快感を体験すると、満員電車の通勤がイヤになる。ラッシュにもまれ、座っている人は寝ているし、みんなイライラし疲れ切っている。そんな電車通勤を、まるで「家畜を運ぶ貨車みたい」と表現した人もいたという。

 家族にも好評のようだ。走ることの楽しさを知った夫に対し、妻から「毎日が楽しそう」「前よりずっと生き生きしている」と言われたり、中には息子から「かっこいい」と称賛された人もいる。

 自転車通勤をする人々を取材し、筆者はこう述べる。「ラッシュにもまれて出勤し、季節を忘れるような空調のきいたオフィスで働く会社員にとって自転車通勤は、少しだけ自由になり、自分らしさを取り戻す行為なのかもしれない」と。

・キーワード:サラリーマン 自転車通勤
「アエラ」2001年10月1日号 66-67頁

 自転車はいいですよ。「環境に良く、体に良く、そして心にも良い」と、周囲の人にふれまわっている私です。今では、満員電車に乗ったりすると、「かつては、こんな非人間的なものに乗っていたんだ」と思ってしまう。帰りにはポタリング(自転車で散歩)のように、ゆっくりと街中を流したり、わざといつもと違う道を走ってみたりすることもある。自転車は体力のあるなしに関係なく、老若男女誰でも楽しめる道具です。ぜひ、みなさんもお試しあれ。

2001.10.03)


電車内の世代間憎悪をどうしたらよいのか

 電車の中では誰もが苛立っている。いったいどうなっているのだろうか。若者が悪いのか、それとも大人が悪いのか。電車の中の風景は、現在の日本の縮図である。この状況を打開するために、私たちには何ができるのであろうか。

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キレる若者より怖いもの(星野博美:作家・写真家)

 電車の中が荒れている。車内でのケイタイの使用・化粧など、若者のマナーの悪化、そしてキレる若者による殺傷事件。それに対するヒステリックな若者糾弾。筆者はこれを「世代間憎悪」ではないかとみる。しかし若者を憎悪で糾弾しても、状況は悪くなる一方である。憎悪は憎悪しか生み出さず、コミュニケーションになり得ないからだ。

 ある時、筆者は車内でこんな光景を目にする。車内で10代の女の子の携帯電話の着信音が響き、「いま電車の中なんだ」と片手で口元を隠しながら小声で話す。前に座っていた中年の男性が「車内ではケイタイ切れってんだ」とすごむ。「ごめん、あとでかけなおすね」という彼女に向かって、「聞こえねえのか、この野郎」と、男は今にも殴り掛かってきそうな様子。怯えた彼女は立ち上がってホームへ駆け出し、男は満足そうに空いた席に座る。

 筆者は頭をひねる。おかしくないか、と。これはマナーの悪い若者に注意をうながす大人の態度ではなく、憎悪の押し売りだ。それも自分が勝てそうな相手を巧妙に選んでいる。コミュニケーション能力を失っているのは、何も若者だけではなさそうだ。そして若者を糾弾する人々は、苛立ち疲れ切っている人々でもある。ペースメーカをつけた人の健康が心配で糾弾しているのでなく、「しゃべる声がうるさい」と言いながらも実は若者が無言でメールを打っているだけでも苛立っているのが、本心ではないかと。それなのに突如エセ道徳者に豹変する。だから説得力がない。こんな態度で糾弾されれば、筆者でもキレると。

 筆者の立場は、若者の味方というわけではない。だから大人の側だけに問題があると思ってはいない。傍若無人な若者に対し不愉快を感じ、「見ずに済んでいた他人の私的空間が、だらだらととめどなく、公的空間に流れ出している」ことに対して不快感を感じている。どこにでも座り込む若者たち・車内で携帯電話・化粧をする若者たちに、世界は君の部屋なのか、君の寝室なのか、と。

 これほどまでに若者たちを変えてしまったのは、携帯電話の普及によるものだと考える。本来、若者にとって電話をすることは、私的空間で行われるプライベートな行為である。しかし、いつでもどこでも電話が出来る携帯電話の登場によって、私的行為が公共空間に流れ出してしまったのである。つまり公共空間であるのに、彼らの意識の中にはそこが私的空間(自分の部屋)であると勘違いをしているというわけだ。自分の部屋ならばすべてのことを意のままに動かせるが、不特定多数の集まる公共空間であるとそうはいかない。こうして「世界が、そして他人が意のままに動かないことに」若者たちも苛立っているのである。

 こんな世代間憎悪が渦巻く現在、どうしたらよいのか。問題は私たちが鈍感になってしまったことである。生活を便利にしてくれる道具は、「それまでに必要だった膨大な時間と手間、つまりプロセスを省けるよう」してくれた。しかしプロセスを省くということは、同時に何かを学習し思考する機会を失ったことを意味する。学習しない人は恥をかかないから、いつまでたっても鈍感のままであり、鈍感であるために敏感な人を傷つけ追いつめる。コミュニケーションが不得手なことは罪ではないが、鈍感な人が増えることは、社会にとって致命的である。

 だから大人たちはまず、「これまでに自分がどんなプロセスをはしょって楽をしてきたのか、何との衝突を回避してきたのか、どこで手抜きを覚えたのかを、一つ一つ検証」し(便利な道具の使用によってどんな大切なことを失ってしまったかを検証し)、下の世代に伝えていく必要がある。そのためにも対話は重要である。しかし憎悪は不要だ。憎悪の押し売りでは「人間と関わるのはやはり面倒でうざったい」とあらためて相手に植えつけるだけであるからだ。そして若者たちも、「大人はくだらない、信じられない」という暇があったら、「一人でも良いから信じられる大人を探す努力」をすべきではないかと。

 たとえ膨大な時間とエネルギーがかかろうとも、対話こそがこの状況を打開できる道なのではないか。長い時間をかける忍耐力が必要だが、それができないと「何事も論議されないままに、気分だけで大多数が一つの方向に傾いてしまう」いびつな社会になってしまう。なぜなら「考えない人たちにとって、ファシズムは一番楽ちんだから」。ということで「いざとなったら、キレる若者より、考えない大人の方がずっと怖い」と言えるのかもしれない。

・キーワード:若者 大人 モラル コミュニケーション
「中央公論」2001年10月号 210-219p

 かなり厳しい意見だが、大切なことがたくさん書かれているような気がする。私自身、忙しくなってくると、つい「対話」や「思考」が面倒になってしまう。だからこの記事を読んだときは、正直、ドキッとした。世代間で完全に理解しあうということは、無理かもしれないが、今の状況はどこかおかしい。やはり大切なのは「考えること」「話し合うこと」なのであろう。さて今回の記事で「ふむふむ」と思ってしまった箇所がある。それは「豊かになったら大学生はバカになるし、平和ボケになるし、子どもは大人を敬わないし、大人は幼稚になる。それでも飢え死にせずに済み、他人の意向で戦場に行かずに済むのはいいことだ」という箇所。日本は「平和ボケ」と批評家たちがよく言ったりするけど、だからって「他人の意向で戦場に行く」よりは、ずっと良い。

2001.10.10)


「テロ」っていったい何なの?

 アメリカでのテロ事件の後、「テロ」という言葉を毎日のように目にし、耳にしている。しかしこの「テロ」という言葉は、非常に曖昧な言葉で、一筋縄ではいかないようだ。「テロ」を撲滅するというのは、どんな行為をする人々を撲滅することなのか、考えれば考えるほどわからなくなってしまう。世界には多数の民族や国家が存在し、歴史・宗教・慣習と背負ってきているものが違う人々が共存せねばならない現実がある。たかが言葉の定義とはいえ、一歩まちがえれば更なる禍根を残すことになるかもしれない。

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テロの定義はできるか;ご都合主義的な報復の前提(田岡俊次:アエラ編集部)

 アメリカでテロ事件が起き、世界各国は「テロリズム撲滅」を唱え、国連も「包括的テロ防止条約」の採択を目指している。しかし、この「テロ」とは、いったいどういうものなのか。実は国際的に確立した定義はないという。また未発効だがすでに締結済みの「テロ資金給与防止条約」も、テロリズムという言葉を定義抜きで使用しており、そのためこの条約を各国が国内法として作ることは困難だという。

 かつてオサマ・ビンラディンは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に対しゲリラの指導者として戦い、アメリカは彼を「自由の戦士(フリーダム・ファイター)」と呼び英雄視した。湾岸戦争後、米軍がサウジアラビアに駐留し続けていることに憤慨し、反米破壊活動を始めると、今度は「テロリスト」と呼ばれるようになった。ビンラディンは「昔も今も異教徒軍を駆逐しようとしている」に過ぎないのだろうが、アメリカにとっては味方のときは「自由の戦士」で、アメリカに刃向かえば「テロリスト」となるようだ。

 これは今回のテロ事件だけではない。イラク・トルコ・イラン国境地帯で立てこもっているクルド族の独立問題もそうだ。イラク軍がクルド族を攻撃しようとするとアメリカは妨害し、NATO加盟のトルコ領土内でクルド族が活動をしようとすれば、アメリカは「テロリスト」とみなす。コソボでもアルバニア系武装組織を「テロリスト」としてユーゴスラビアに討伐を求め、1年後にはアルバニア系の住民を虐殺したとしてアメリカはユーゴを爆撃してしまう。完全に自己矛盾に陥ってしまっており、アメリカのご都合主義といわれても仕方ないだろう。

 またアメリカフロリダ州には、反カストロ系のキューバ人テロ組織「オメガ7」「アルファ66」などが存在し、ちょうどタリバン政権下にビンラディン氏が「かくまわれている」のと似ている形である。

 さらに歴史を振り返ると、テロの定義はややこしくなる。第2次世界大戦中、フランスや東欧の地下組織は、ドイツ将校やドイツ協力者の暗殺、列車転覆、爆破などを行なった。連合軍はこれを「レジスタンス」と呼んだが、ドイツから見ればこれは「テロリスト」である。ノルウェーでもドイツ軍に徴用されたバス2台を断崖からフィヨルドに突入させ、多数のドイツ兵を水死させるという「自殺テロ」も起きている。「自殺テロ」をした2人の運転手は英雄となっている。

 伊藤博文がハルビン駅でによって射殺された事件でも、日本では安重根を「テロリスト」としているが、韓国では愛国の「義士」と称される。ちなみに伊藤博文自身も明治維新前では、幕府側の学者の暗殺やイギリス公使館の焼き討ちをした「志士」であり、「元テロリスト」であったことになる。だからこの事件は「元テロリスト」が「現役テロリスト」に殺されたことになる。

 結局のところ、「レジスタンスや自由の戦士とテロリストの間に誰にも納得できる客観的な線を引くのは、たぶん不可能」なのであろう。

・キーワード:テロリズム
「アエラ」2001年10月15日号 15頁

 「テロ防止」に関する法律を作ろうとする場合、厳密な言葉の定義が必要になる。そうしないと恣意的に使われたり、法律を作っても実効性の薄いものになってしまうからである。特に権力者のご都合で恣意的に使われるのは、非常に怖い。テロリストを取り締まるはずだったのが、いつのまにか「テロリスト」とは無縁の私たちを取り締まる法律になってしまうかもしれないからだ。そういう意味からも、言葉は思いのほか大切である。

2001.10.17)


日本発「オリジナル美人」って?

 この記事は、イラストレーターで「日本美女選別家協会」(日夜、真の美女とは何かを思索し、その審美眼を世に広めようとする集団?)の会員であるリリー・フランキー氏と「美女とは何か;日中美人の文化史」(晶文社)の著者である張競氏による対談で、美人について語ったものである。話は美人に限らず、日中文化比較、歴史、エロスと縦横無尽に広がっていく。

(FILE−039)
対談 美人はどこにいる(リリー・フランキー:コラムニスト・イラストレーター 張競:明治大学教授・比較文学)

 まず2人が共通することは、「美人」などというものは実際に存在しない、ということ。「美人」という言葉自体カジュアルになって、よく使われるが、みんなが納得する「美人」というものは残念ながら存在しない。では、タイトルにあるように「美人はどこにいる」のかというと、「はるか彼方にいる」ものであると述べる。大昔なら「女神」、その後は宮廷の女性(小野小町や楊貴妃など、庶民の生活からかけ離れた人)、そして遊女(江戸時代の花魁)。現代では女優が美人の象徴とされている。いずれにせよ身近な存在ではない。

 もともと「美人」は情緒的な問題であり、見られる側の問題というより、見る側の問題である。何らかの美の基準があるわけではない。だからある人にとっては「美人」と感じられても、他の人にはまったく受け入れられないことだってある。遠い彼方にいる存在、つまり身近な存在ではないからこそ、見る側に「思い込み」という情緒が介在し、「これこそが美人だ」と思えるのである。逆に、その「美人」と結婚して、隣にいると「美人」に見えなくなってしまうのである。張氏曰く「美人としてとっておくなら会わない方がいいのかも」。

 少し話がそれるが、日本ほど遊女に関して寛容な国はないという。現代でも風俗店や援助交際が存在しているが、売春や性風俗の経験があっても、彼女たちはごく平凡な結婚を望み、実際に平凡な結婚していく人もいるという。男性のほうも女性に「過去をグチュグチュ言うのは男らしくない」と言われ、あえて女性の過去を問わなかったりする。しかし日本以外の男性は、もっとグチュグチ言い、過去にこだわるという。また、日本以外の男性は、容貌に関しても自分のタイプが明確であり、日本人の男性以上にこだわるようである。

 近代以降の日本では、化粧でもファッションでも西欧を模倣し、西欧的美人像というものを形成してきた。和風美人というものも存在するが、これも西欧的な美に飽きたための再評価に過ぎないという。それに対して、唯一、西欧の美を無視し、日本のオリジナルであるのが、ガングロ・ヤマンバである。西欧美に反抗するわけでも真似するわけでもなく、完全に西欧美からおりている。それまでの世代が持っていた西欧に対するコンプレックスもない。

 そしてこのガングロ・ヤマンバは、西欧人にはほとんど理解不能であるのに対し、東洋人は感応しやすい。中国でもガングロ・ヤマンバは流行っていて、深などでは日本のよりもかなり過激であるとか。またルーズソックスも韓国の女子高生の間では当たり前になっているとのこと。日本で生産された大衆文化は、ヨーロッパ以上にアジアでは共感を得やすい。これは、それぞれのお国柄は違っても、ある部分では接点を持っているということであろう。そして若い人の間で、国境を越えた文化的共同体が生まれているということになるようだ。

・キーワード:美意識 若者
「新刊ニュース」615号(2001年10月号)トーハン 10-21頁

 ガングロ・ヤマンバにルーズソックスなどの若い女性のファッションが、アジアで受けているとのことだが、実は彼女たちに注目しているのは何もアジア人だけではないのだ。「アエラ」2001年8月27日号の「東京はNYをすでに超えた」という記事によると、ヨーロッパのアーティストやクリエーターたちからも熱い視線を受けている。ドイツ人美術家のフロリアン・クラーク氏は「何でもアリの東京カルチャー」を面白がり、2メートルの長さを持つルーズソックスを見て「それって本当のアートみたい」と感心する。またイギリス人のファションデザイナーのパトリック・ライアン氏も「ニューヨークにファッションはない(中略)東京の方がずっと盛り上がっている」と言い、「おばさん向けのゴージャスな服ばかり」の「パリ・コレ」はダサいと実感し、「ロンドン・コレクションも感動しない」と言ってのける。うーむ、あなどれないぞ、日本の大衆文化!

2001.10.24)


日本周辺は本当にヤバイのか?

 さて今回は、ちょっとかためのお話、軍事問題である(興味がない人もいるかもしれないけど、ちょっとお付き合いを)。日本は不景気で国家赤字が累積しているのに、いつも自衛隊関連予算(要は軍事費ね)はやたらと大きい。予算は国民の血税でもあるわけで、国民に直接関係のある福祉や文教を削減するなら、この自衛隊関連予算を何とかすべきなのではないかな、とやっぱり思ってしまう。「でもロシアや北朝鮮の脅威があるから」と思われる人もいるかもしれない。でもその「脅威」って本当なのだろうか。一部学者やメディアや政府に振りまわされないためにも、今回はこんな記事を紹介したいと思う。

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軍事的「脅威」はほんとうか?(田岡俊次:朝日新聞編集委員)

 平和を望むなら軍事情勢について知ることは大切であるが、何だかやたらと「脅威」が強調され過ぎているのではないかと、長年軍事研究をしてきた筆者は疑問を呈する。1989年11月ベルリンの壁崩壊で、東西両陣営の冷戦は終わり、10年以上の月日が過ぎた。それなのに「北東アジアでは冷戦構造は不変」とばかりに、日本を取り巻く軍事情勢にはいまだ「脅威」が存在しているような言説がまかり通っている。「脅威」としてあげられるのは、ロシア・北朝鮮・中国ということらしいが、もう少し詳しく調べてみると、実はここ日本周辺でも冷戦はほぼ終わっていると言えるようだ。

 まずロシアだが、極東ロシア軍は、ここ10年で急激に空洞化してしまった。かつては空母2隻を含む水上艦90隻に潜水艦120隻だったのが、今では出動可能な状態にあるのは駆逐艦2隻と潜水艦5〜6隻程度である(日本の海上自衛隊は水上艦53隻・潜水艦16隻)。同じく陸軍兵力は広大なシベリア大陸に8万6千人(陸上自衛隊は約14万5千人)しかおらず、弾薬庫の警備すらできないという。そのため武器・弾薬を盗む者が出るありさまで、軍も頭を痛めている。戦闘機と対地攻撃機は、それぞれ100機と300機あるが(日本は戦闘機300機)、実は燃料と部品が極度に不足しており、飛行訓練すらできないありさまなのだ。これでは通常戦力はほぼ消滅したといってよい状態にある。

 北朝鮮でも実状は同じである。特に1990年以降、当時のソ連が韓国と国交を樹立し、その2年後には中国と韓国の間でも国交が樹立されている。これによって北朝鮮は孤立せざるを得なくなった。韓国と北朝鮮の軍事力の差は歴然としており、戦えば韓国の勝利はまず間違いないだろうと言われている。韓国はたてまえとしては朝鮮の統一を表明しているが、実際はそれを望んでいない。というのも北朝鮮は経済的に飢餓状態にあり、統一した後の韓国の経済的負担は計り知れず、韓国経済が統一の負担に耐えられないからだ(これは東西ドイツ統一の比ではない)。そして中国は北朝鮮が問題を起こすことを避けるために、最低限の食糧と燃料の援助をしているという。このため「北朝鮮に脅威を感じるか」という世論調査をすると、日本では31%にも上るのに対し、当事者である韓国は11%に過ぎない。北朝鮮の弾道ミサイルの「脅威」もあるが、北朝鮮のミサイルの精度は低い。また核兵器を持っている「噂」もあったが、それも単なる「噂」にすぎないようだ。

 さて最後に中国だが、軍備はどんどん減少の傾向にある。質的にも旧式の兵器が多い。むしろ台湾の方が軍事的に優位にある。そのため台湾海峡の制海・制空権は、台湾が握っており、台湾国防部は「(中国軍の)台湾への侵攻は根本的に不可能」と証言している。また台湾の世論調査でも「中国はこわくない」と答えた人が70%を超えたという。また中国軍人の給与は低く、そのため各部隊で副業(ポケベル会社を作ったり、1個師団が化粧品工場と化していたり、兵士が行商に出かけたり)に走り、軍の訓練がおろそかになっているとのこと。政府はあわてて「軍人の商業活動全面禁止」の通達を出すが、企業の名義を家族の者に変えるなどして、実態は変わらないようだ。

 と、まあ、実際のところ「脅威」はどこにいったという感じであるが、日本ではいまだに「脅威」が唱えられ、何となくそんな気分が横行している。これは自衛隊やその関係者が、予算・人員・権力拡大のため「脅威」を強調しているためであり、さらに国際政治学者やメディアが実際の真偽を判断せず、自衛隊や政府の発表をそのまま鵜呑みにしているためである。

・キーワード:軍事問題
「サティア」44号(2001年秋季号) 東洋大学井上円了記念学術センター 10-13頁

 予算・人員・権力拡大のため「脅威」をあおるのは、何も日本の国防関係者だけではない。他国でもあることだし、国内でも政治家や他の行政機関がよく使う手である。だからこそ私たちは少し冷静になって判断すべきことなのだろう。最後に、紙面の都合上、詳しいデータや根拠が紹介できなかったが、記事の方にはきちんと書かれているので、関心のある方はこの記事を入手して読んでいただきたい(書店で販売されていないと思うので、図書館を通すしかないかもしれないが)。私としては、「脅威」といわれる国々の戦力が落ちたから日本は安全という発想より、もっと地に足のついた平和と友好(武力によらない平和)を促進してほしいなあ、やっぱり。

2001.10.31)


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